雪解けを待つ球根のように
鬱期からは逃げられない
ジェットコースターのように鬱と躁を繰り返す躁鬱。自分のこの性質とうまく付き合っていくために、考え方を変えたり薬を使ったりしてだいぶマシにはなってはきましたが、それでも鬱のときには「もう死んでしまいたい…」という気持ちになります。
「鬱の波が過ぎればそんなことは思わない」ということも、「そんな気持ちに集中してはいけない」ということも分かってはいるものの、理性だけで止められるわけもなく…。
鬱になる度に読書もブログも仕事のためのインプットもストップ。そんな「心にも体にも波があって、頑張りたいことを安定して頑張ることができない自分」を「やりたいことに向けて常にアクティブに頑張っている誰か」と比較してしまって辛くなることもしょっちゅうあります。
諦めるのは悪いこと?
でも最近やっと、「波がある自分」「頑張れない自分」を受け容れられる…というより、諦められるようになってきました。
これまで何度抗っても勝てなかった鬱になんか、勝てるはずないんだ、無理なんだ、と。
こう言うと、辛いことを克服する努力を投げ出しているような感じも受けますが、それはつまり「辛いことを克服する努力を投げ出してはいけない」と「"いま"辛い自分」を否定し、追い詰めている証拠でもあるのだと思います。
実際、落ち込んで泣いているときに頑張って普通の生活をするのを諦めて思考停止していたら、辛さがいつもよりマシでした。ありのままの自分を少し認めてあげられたような気がします。
不可抗力な鬱の波に打ち勝とうとすることで辛い気持ちが強まってしまうのであれば、そしてそれを諦めることで鬱期が少しでも楽になるのであれば、それは「逃げ」ではなく「対処」なのだ、と思います。
また鬱の波がきても
躁鬱と付き合って生きていくということは、これからもずっと、何回もまた鬱の波に襲われるということ。
そう思うと少しうんざりもしますが、雪の下に埋まった球根が雪解けを待つように、受動的ではあるけれど、いや受動的でしかいられないからこそ辛抱強く戦っている。そんな自分を褒めて、労って、これからもなんとかやっていければなぁ、と思います。